第1回講義レポート 弘前大学 杉山修一名誉教授「有機農業の可能性と未来―脱炭素社会における有機農業の役割」

2022.09.01

以下、事務局がまとめた伊那谷有機農業塾第1回のご講演(弘前大学 杉山修一名誉教授)の要旨です。

温暖化と脱炭素社会の農業のあり方、日本の有機農業の現状

 気象庁の統計データを調べて見ると、この30年で伊那市の日最高気温の平均値が3度も上昇していることがわかります。日本で温暖化が着実に進んでいることは皆さんも実感できると思います。温暖化をもたらす二酸化炭素の排出抑制(脱炭素)は私たちの身近な課題になってきています。
 農業と脱炭素の関係を見ると、大きな転換点は、1950年頃に完成した「緑の革命」の技術にあります。この技術は化学肥料と合成農薬の投入を基礎としており、これによって大幅な収量増加が可能になり、世界の多くの人々は飢餓から解放されました。一方、「緑の革命」の技術は化石エネルギーの大量投入を通じて収量増加を図ることを特徴としています。栽培に投入されるエネルギーの内訳を見ると、化学肥料と燃料の二つで約90%を占めています。したがって、農業部門で脱炭素を達成するには、化学肥料を減らし、農薬などの散布に使われる燃料を減らすことが必要になります。そうすると、化学肥料と合成農薬を使用しない有機農業はこれからの脱炭素時代にふさわしい農業として注目を浴びてきます。
 しかし、日本の有機農業の現状を見ると、有機JAS取扱面積の割合が0.2%程度と低く、世界の中では109位(2017年データ)となっており、他の先進国に比べて有機農業の後進国となっています。世界では、欧米を中心に近年有機農産物の取扱高は増加しているにもかかわらず、日本で有機農業が広まらないのはなぜなのでしょうか?そこには、日本の気候条件がもたらす有機栽培の技術的問題が見えてきます。

有機農業の分類・定義と有機農業の問題点

有機農業の分類・定義と有機農業の問題点

 一般に、有機農業と言えば、JAS有機のルールにしたがっていることを指します。JAS有機は栽培で使用できる資材が決められており、基本的には天然物由来の資材しか使用できません。しかし、有機農業の概念は広く、有機JAS栽培以外に「自然栽培」、「自然農法」も有機農業に含まれます。「自然栽培」も「自然農法」も、使用できる技術がさらに制限され、堆肥を含めて肥料と農薬は使いません。
 慣行農法、JAS有機栽培、自然栽培でつくられた3種類のキュウリを切ってそのまま放置し、腐り方を比較した実験があります。驚くことに、JAS有機栽培のものが慣行栽培のものより早く腐り、自然栽培のものは腐りませんでした。この原因はキュウリに含まれる窒素の量と考えられます。JAS有機栽培では作物の成育を促進するために堆肥を沢山入れ、その結果土壌に窒素が過剰になり、作物が過剰に吸収して葉に硝酸態窒素を蓄積することもあります。JAS有機のルールに従っているだけでは、いい野菜にならないこともあるのです。そうすると、作物が腐りやすく、また病気も出やすくなります。日本の高温・多湿の気候条件では害虫や病気の発生が多くなり、窒素が過剰になりがちな有機栽培は、病害虫の発生をさらに増長しやすく、有機栽培農家は病害虫防除の困難さに直面します。日本で有機農業が増えない原因は、堆肥を含む肥料の投入と無農薬を両立させにくい日本の気候条件にも一因があると思われます。
 一方で、肥料を投入しない「自然栽培」の作物は窒素が乏しい条件で育つために、腐敗菌や病原菌が増えにくく、害虫も増えにくくなります。肥料を投入しないことで病害虫の発生が抑えられるのです。有機農業を日本で広めるためには、JAS有機栽培のように堆肥を投入して作物を育てるやり方ではなく、地力の向上を通じて作物を育てる「自然栽培」的管理が向いているのではないでしょうか。

自然栽培のポイント、伊那谷の未来へ

 無肥料・無農薬の自然栽培でも慣行栽培に匹敵する収量を上げている水田農家が存在します。研究の結果、無肥料で高収量を上げている水田では、肥料として窒素を投入する代わりに土壌の微生物に窒素固定をさせて、窒素肥料を土壌でつくっていることがわかりました。土壌中の微生物(細菌)による窒素固定反応を促進するためには、①反応を進めるためのエネルギー源がある、②アンモニア態窒素がない、③酸素がない、④リン酸があるという4条件が必要です。
 他方、微生物による窒素固定を促進させる条件に土壌の乾燥があります。乾土効果が窒素固定細菌を増やしてイネの成育を著しく増加させるという実験結果を得ました。また、全国の無肥料で自然栽培を行っている畑の生産力の差の原因を調べたところ、土壌の有機物が多いことが関係していることがわかりました。同時に、畑土壌中の窒素固定をする微生物が多いことも地力を上げることに関係していることが分かりました。この2つの条件を満たすことが、無肥料で畑の生産性を上げるために重要になってきます。ただし、土壌の窒素固定細菌が増えるには時間がかかるということが問題になっており、今後の技術研究がさらに必要です。
 今までの慣行栽培では、「土壌は作物を支持する物理的空間であり、作物を持続的に栽培するには肥料として外部から栄養塩を補給することが不可欠である」と考えられてきました。ところが、長期無肥料で作物栽培を可能にしている自然栽培土壌を見ると、「土壌は微生物を中心とする多様な生物が集まった複雑な生態系であり、外部に持ちだされた栄養塩を自律的に供給する能力を持つ(自律的栄養塩供給力)」という別の見方が出てきます。今後の有機農業を考えると、無肥料で土壌の微生物の働きを活かすことが重要で、そのことが、脱炭素社会に向かうこれからの時代に適した栽培技術になるのではないでしょうか。
 伊那市は既に市長のリーダーシップの下、エネルギーの自給を目指し進んでおり、これからの脱炭素社会の先端を走っていると実感しました。地域での食料自給も伊那の目指す方向です。化学肥料から脱却し、土壌細菌による窒素固定によりよい土づくりを目指す流れは、農業の脱炭素にとっても重要なステップです。これからは農業を含めて、ぜひ伊那市が脱炭素の最先端の町として走り続けていくことを願っています。